ZOOTOPIAと悪意なき悪 僕は善も悪も嫌いである

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好きなBGMまとめてみました。音が大きいので注意
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こんにちは。こそあどです。
ドリームキラーと無自覚の攻撃の話をしていきます。
 
最近ディズニーのZOOTOPIAを見ました。
この記事は、メモ書きで書きなぐりです。
 
 
 
他のレビューをみると差別問題が取り上げられてるので、
僕はあえてズートピアが描いている差別問題については書きません。
 
 
 
というのは、
無意識なので僕らも常にやっているであろうから。
 
無自覚の攻撃を分解すると
・無自覚、無意識である。つまり、行動の影響について認識できない。
・攻撃である。つまり、相手が傷つくことである。
 
この2つに分けられますが、
僕らから無意識を消すことはできないし、
相手を傷つけないこともできません。
 
相手の数が人間だけで70億もいるとすると、
全員の気持ちを想定することはできないので、仕方がない部分もあります。
 
ですが、
「あ、自分は知らないことを忘れがちなんだ。知った気でアドバイスしてしまうんだ」
 
と心に留めておけば、わからないことに踏み込まないことはできるので
今回は書いていきます。
 

今回は無意識と善意について取り上げます。

 
例えば
主人公のウサギ。ジュディの両親はドリームキラーです。
 
挑戦しなければ失敗しないとか、
警官になったウサギなんていないぞ、無理だ無理だとか
 
 
しかしジュディはくじけず、あっさりと警官になります。
 
そして憧れの誰もが何にでもなれる街ズートピアへ。
 
しかしウサギは弱々しいみたいな差別を受けるなど、
全然理想郷ではありません。
 
違反切符係にされた上、
仕事をまともにしても住人から文句を言われる。
 
 
夢を叶えたのに親はいつまでも心配し、
危険な仕事じゃないのか、なんだかんだ。
 
これは結構あるあるではないでしょうか?

もちろん相手のためを思っているのですが、

ドリームキラーなのです。
 
相手のためを思っているのですが、
それは表面上の言い訳に感じられます。
 
 
相手のためを思っている、
という大義名分によって、単なる攻撃を正当化している。
 
もっと言えば、
相手のためを思っている = いいことをしている
 
善という幻想に取り憑かれている人間の典型例なのです。
 
自分がしていることは善である。
あるいは、悪である。
 
と思うと、
それが肯定、あるいは否定をする理由の全てになる。
 
 
なぜ笑うべきか?
いいことだから。
 
例えばこういう、明確な理由になっていないのに、
信じきっている。
 
「大人だから俺が正しい!」みたいな理不尽を許すのと同じ。
立場が変われば、ただの理不尽に過ぎない。
 
 
笑うことがいい、というテーゼに対し
無理に笑うと、うつ病が進むというアンチテーゼもある。
 
けど、だいたいアンチテーゼは無視される。
知らないので、想像できない。
 
だから分かり合えない人間がいるのですね。
 
価値観の違いは、
得た情報を元にした論理の違いもあります。
 
雨の日は楽しいというテーゼを持ってる人もいれば、
雨の日は辛いというテーゼの人もいる。
 
見えてる範囲がお互いに被ってない。
アンチテーゼをどちらか、あるいは両方が無視してる。
 
 
テーゼが「雨の日は気分が憂鬱になる」だとしたら
アンチテーゼは「雨の日でも気分は憂鬱じゃないこともある」
みたいな感じ。
 
一部説明できるけど、説明できないことがある。
間違っていないけれど、ある側面しか見えていない。
 
「男性は〜だ」「女性は〜だ」「今の若いものは〜だ」「老人は〜だ」
 
どれも、間違っていない辺りが特に厄介です。
「俺は間違ったことは言っていない!」と言えるから。
 
間違ってないから勘違いする。
というより論理が飛躍する。
 
そして矛盾が起きる。
 
 
 
 
間違ってるか正しいかなんて、無限に量産できるので
そこはあんま重要じゃない。
 
その正しさに、意味はあるのか?
これを考えないと、無限に生まれる正しさに踊らされます。
 

この世にあるのは正しさではなく、都合に過ぎない。

 
善と悪は幻想です。
人を動かすための印象操作。
 
「あいつらが悪い! これは防衛戦争だ!」「俺たちが正しい!」
「目指すべきは自由だ!」
 
まるでこの世に悪人や善人という
生まれながらに悪だけでできている存在と、善だけでできている存在がいるかのよう。
 
だから、被害者のような加害者や、
無自覚の加害者が現れるのですよね。
 
免罪符「これはいいこと」があるから、止めようとも思わない。
 

実際、人類の大半が愚かであるということを考えれば

広く受け入れられている意見は、馬鹿げている可能性のほうが高い

~バートランド・ラッセル~

こんな名言があります。
 
ジュディも、自分では差別していないつもりなのです。
キツネ、ウサギ、みんな一緒だ。
 
と思っているのに、
 
キツネを見かけると警戒したり、
ミスタービッグを見た目だけで判断したり、
肉食と草食の違いで判断したり、
 
 
無意識は行動となって現れている。
 
行動は本音の表れです。
言葉ではなく行動を見ないと何が望んでいるかはわからない。
これは自分も他人もです。
 
 
それはさておき。
 
途中、肉食動物だけが暴れ出すという事件が起きます。
それについてジュディが「DNAかなにかで・・・」と返します。
 
それでズートピア全体が肉食動物を怖がるようになります。
みんなが怖がるからどっかに行け、みたいな感じ。
 
 
草食動物であり、虐げられていたあのキャラクターが
まさかの黒幕という。
 
草食動物からしたら
「こんなやつらさっさと追い出してよ!」という感じですね。
 
ですが、何もしていない肉食動物を攻撃していることを忘れている。
 
 
 
この作品は結構奥が深いなーと思いました。
差別問題がメインテーマかと思われますが
 
無意識の攻撃と善と悪という視点から
深く掘り下げてる記事がなかったので書きました。
 
 
まあ。
善悪が決まっている捉えることは、悪人差別と言えるんですけどね。
 
悪人なんて存在しないのです。
というか正確な表現ではない。
 
「悪人」ではなく、
「少なくとも私が見た限りにおいて、私が悪だと呼んでいる行動をする傾向にある存在」
から始まり
 
「 『少なくとも私が見た限りにおいて、私が悪だと呼んでいる行動をする傾向にある存在』と誰かが呼んでいると私が理解している存在」
これも「悪人」と呼ばれますね。
 
無駄にややこしいですけど。
 
当たり前かもしれないけれど、当たり前は大体忘れていく。
そして当たり前を確認しないままコミュニケーションを取ると、大体すれ違う。
 
違う前提を元にコミュニケーションを取るので話が噛み合わなくなる。
 

無意識の攻撃。

 
心配なら、相手に対して根拠あるアドバイスをする。
これが本当の意味で相手のためになることです。
 
 
例えば、アメリカの治安や暮らしについて大してわからない人物に
「アメリカは危ないのかな?」聞く意味はあまりないでしょう。
 
わからない人には、わからないから。
 
 
なぜだか、
特定の権威がある人や大人に聞けば何でもわかると思いがちなのですが
何でも知ってる人間はいません。
 
医学について詳しいからといって、
心理学について詳しいとは限らないように。
 
有名な弁護士だからって、
法律の全部に通じているわけではないように。
 
 
 
 
わかりやすいのは
公務員や学校の先生に「起業はどうなんですか?」とアドバイスを求めたりする。
 
起業はいいぜ! って人は起業してるんで
詳しくない人に聞いても、あんま意味がない。
 
なのに人は納得するんですよね。
 
ニュートンは光について詳しくないのに
「光は粒子だ」と言いました。
 
その結果、数百年間も
「まあニュートンが言うなら、光は粒子じゃね?」
という雰囲気だったのですね。
 
歴史は繰り返すってやつですね。

真実というものは、確かに誰にもわからないものですが

 
真実は常にわからないけれど、
最初からそんなことはどうでもいいのです。
 
そもそも、真実などわからないのだから。
 
検証不能なことを検証しても意味がない。
検証可能なことを検証するだけです。
 
つまり大事なのは現実だけ。
 
 
 
僕らにできることは、確率が高いことを選ぶことだけ。
 
正しい選択はできない。
未来はわからないから。
 
 
 
話を戻しますが、
 
わからないのに、わかった風にアドバイスをすることは危険なわけです。
 
 
 
特に、
教える立場というのは調子に乗ってしまう。
 
逆に、
教わる立場というのは頼り過ぎてしまう。
 
 

間違い無く言えるのは、根拠のない意見に根拠はないということ。

 
信用すべきは、信用に値するものだけ。
 
僕が信用していない存在をいくつかあげると
感情的なのに心配してくる人。
 
 
自分の感情に流されている人間は、自分の欲求を満たしたいからコントロールしようとしてくる。
 
あとは綺麗事ばかり言う人。
さも自分がいい人であると思い込んでいる人。
 
綺麗事は、現実より綺麗に見せている。
だから裏切りとワンセットである。
 
 
僕は自分がいい人だとも、悪い人だとも思われたくはありません。
そんな人間は存在しない。あるのは都合だけ。
 
 
その概念そのものが嫌いであり、非常に恨めしく憎らしいのです。
善と悪という設定は、無意識の攻撃につながるのです。
 
 
それは他人を攻撃し、自分にも返ってくる。
 
戦争の英雄が大量殺人鬼として扱われたり、
「みんな」とやらは手のひらを返してくる。
 
「みんな」なんていないのです。
想定している部分だけ。
 
この世には70億も人がいるのに、
「みんな」かを確かめたことなんてあるわけがない。
 
 
 
善と悪は思考停止をもたらす概念で、過度な一般化の典型例なわけです。
 
特に、
典型的だと気づいていない辺りが典型的です。
 
 

以下余談 名探偵と事件

たまに名探偵コナンなどで、

コナンが行った先で事件が発生しますが

 

これはストーリー的には、コナンのために事件が用意されるわけですよね。

つまりあの世界においては、探偵のために事件が発生する。

 

探偵が存在するから事件が発生する。

 

 

こういう視点で見てみると

名探偵は直接的には犯罪を引き起こしていないけれど、

作者を用いて間接的に犯罪を引き起こして

それを解決し、活躍する。

 

で説教をする立場にいる。

 

中々なマッチポンプにも見えます。

 

もちろんコナンは普通に面白いので、

こんなことはどうでもいいけど。

 

 

 

現実には探偵がそういう仕事をしてないけれど、

正義と呼ばれる人間や行動が、悪と呼ばれるものを発生させていないのか?

 

と考えてみるのも重要なのですよねって話です。

 

 

例えば、

自分の子供が犯罪を犯した。

(万引きレベルでもなんでも。)

 

親は謝罪したり、子供を叱る。

子供のためをとか、愛しているなどと言う。

 

子供は反省する。

もちろん親は反省しない。

 

なぜなら「親の問題ではないから」と認識されるから。

 

実際は、親のストレスによって子供が適応障害になったりするわけです。

ストレスでうつ状態になるのもそうだけど、不良になるのも適応障害。

 

仮にそうだとしたら、マッチポンプだなあと思ったものです。

 

 

子供とは? もちろん人間です。

人間とは? 体と心にわけわれる。

 

体とは?

もちろん物質でできている。食べたものなどでできている。

つまり、どこかから来ている。そしてどこかに消えていく。

 

では、

どこからどこまでが「自分」で「体」なんです?

 

心とは? 

情報で変化する。情報で出来上がっていく。

何気ない一言で傷つくこともあるように、逆に励まされるように。

自分の外から吸収した情報で出来上がる。

 

では、

どこからどこまでが「自分」で「心」なんです?

 

自分は他人でもできている。

というより、他人は自分の一部であると言える。

 

 

 

だから、問題を起こした方は反省しないといけないんですよね。

 

それは問題を起こした当人はもちろんのこと、

そいつを生み出した環境もなんですよ。

 

今の所、人のせいにするな理論で

環境側の反省が足りていないのです。

 

社員教育が微妙なのに、

「なんでわからねえんだ!」みたいなことを言う。

 

 

学校教育も同じで、

先生の教え方が意味不明なのに、

生徒が伸びないのは生徒のせいになったりする。

 

 

もちろん、生徒は生徒でやるべきで

個人は社会に甘えてはいけないかもだけど

社会も個人に甘えてはダメだろってことです。

 

ダメな理由?

それで自分の首まで締まるから。

 

 

社員教育が微妙だったら、社員は伸びない。

会社全体がダメージを受ける。

 

学校教育が微妙だったら、日本全体がダメージを受ける。

 

 

個人のせいにすることも、

それこそ人のせいにするなって感じかもですね?

 

別に何とかなるなら誰のせいでも構わないんですが、

日本も本当にヤバいんで、軌道修正すべきですよね。

 

 

誰のせいでもないですよ。そんなことはどうでもいい。

大事なのは誰のせいにすることで、何が起こるのか?

 

 

環境と個人は、

生活習慣と細胞の関係と似てます。

 

がん細胞を増やす環境をどうにかしないと、

イタチごっこなんですよ。

 

だから社会が反省しないってのは、

がん細胞を悪とみなして殺すだけです。

 

それだと、その内がんで死ぬよねって話なのです。

 

社会の治安が悪い = 体の健康状態が悪化してる

これは本質的に同じ問題なのです。

 

誰が悪いかなんて本質的にはどうでもいい。

 

「がん細胞は悪いんだ! がん細胞がダメなんだ!」

でっていう。

 

それじゃ問題視されない問題が増えすぎる。

 

表面的には重要だけど、

本質的には、そこじゃねえよ感半端ないのです。

 

 

人のせいにするなとか、大人になれとか、現実を見ろとか

あなたが言うのかって感じなんですよね。

 

 

できることしかできない。

できないことは、できない。

 

できないのなら、問題視しても改善はされない。

ゆえに、その問題視に意味はない。

 

意味は0ではありません。

誰かのせいにすることで、自分を守れるという意味はある。

 

でも意味が1のことと

意味が100のことなら

100を常にとっていきたいよなって話です。

 

 

「勉強しろ!」「やる気を出せ!」「感謝しろ!」

みたいな声は、現実逃避だなと思いますね。

 

自分にそれをさせるだけの能力がないから

脅迫に出てるわけです。

 

無能な自分を認めない限り、自分はもちろん周りも苦しむんですよね。

 

 

あとは

「え? 彼女が欲しい? 学校の女子に告白すれば?」

「痩せたい? 毎日10キロ走れば?」

「18時間勉強したい? ならすれば?」 

 

みたいな発言は、

心を無視した不完全な合理性ですね。

 

ヒューマンはエコンではありません。

 

 

人間の心についてわかってないというか

わかる気がないというか。

 

できてるなら、もうやってるのです。

 

やる気出せとか、僕はよく言われましたけど

はあ? って感じでしたね。

 

 

できていないことからわかるのは

できないという現象が起きた何らかの理由がそこにあるってことですよ。

 

現象には必ず理由があるってことですね。

 

一見正論なのですが、それは、あくまでも心を無視した場合です。

実際は、単なる無茶ぶりだったりする。

余談2 それ重要か? それ問題か? 意味ある?

そもそも生きていると呼べるのか?

人は死ぬのか?

 

死体になって、つまりは肉になって

何かに食べられてバラバラになっても、

また別の体として出来上がるのだから

 

全ての生物はアンデッドと呼べなくもない。

そもそも生きていないし死にもしない、とも言える。

 

生と死は、生と死があると思った人間の脳内設定なのです。

何かに「生」、何かに「死」と名前をつけたに過ぎない。

 

生きているか死んでいるかということは、

さして重要ではないのです。

 

つまり、状態につける名前なんて何でもいいのです。

 

というか、

何が生きているか死んでいるかなんて、そもそもわからない。

というか何でも生きていて、何でも死んでいるとも言える。

 

議論する意味がない。

この世に生きている存在なんて、最初からいないのですよ。

生きていると呼ばれるようになった存在がいるだけ。

 

 

生きるのがいいとか、死ぬのが悪いとかではない。

僕らはその辺りを勘違いしている。

 

 

実は、「言葉・言語」に対する理解のなさが

他人に「幸せ」やら「喜び」まで定義されることにもなる。

 

自分の気持ちまで他人に決めさせることになる。

 

「これが幸せなのかな?」

「これは嬉しいことなんだ」

「私が親不孝なんだ」

 

自分の気持ちが何だかわからなくなる。

 

それは、自分の気持ちは自分にしか感じられないにも関わらず

 

他人が、他人にとっての「幸せ」を元に、

僕らの感情にまで名前をつけてくるからですね。

 

「えー子供がいるなんて、それは幸せだよ!」

「あー・・・これが幸せなのかなあ・・・?」

「そうだよ! 結婚は幸せなんだよ」

 

みたいなのって、あるあるですよね。

 

 

他人が幸せだと呼んでいる感情と、

自分が幸せだと呼んでいる感情が異なっていく。

 

けど、気づかない。

 

言葉とはそもそも何かを理解していないと、

言葉に踊らされてしまう。

 

 

言葉なんて人間が作り出したもので、

その正しさも、もちろん無限に量産可能なのです。

 

「犬と呼ばれる存在」に

「犬」という名前をつけたり「dog」という名前をつけたりする。

 

 

他人が見ている世界を、僕らも見ているとは限らない。

クオリア問題というのもありますよね。

 

「僕らが見ているものは一緒だ、ということにしよう」

という前提を元に喋っていることを忘れてはならないのです。

 

僕らが感じているものは一緒である、なんて誰も実証できないのですから。

 

 

 

 

余談3

悪と呼ばれるものは大抵許せないわけですよね。

ですが正義だと思い込んでいる人間も許せないのです。

 

もっと正確に言えば、許せない人間は許せない。

 

自分は原因ではない。関係がない。

勝手にやったことであり、自己責任である。

 

 

しかし、この世はつながっているんですよね。

何がどこに影響するかなんて、バタフライエフェクトって言葉もある通りわからない。

 

誰も彼ももが言葉の幻想に囚われ、

誤った認識のままに、潰し合いをしているように見える。

 

 

人間は自ら現実に蓋をして、脳内設定を増やし

人生が難しいものだと錯覚しているようにも見えるのです。

 

善悪は特にアンチテーゼを無視してしまいがち。

ありもしないものを信じて、二極化した行動になる。

 

臨機応変ではなくなる。

 

まるでこの世に、「これは必ず正しい」

そんな胡散臭くて好都合で、信じていれば楽に生きられる。

考えなくても幸せになれる。

 

そんなものがあると思い込んで自滅する。

自滅していることにも気づかないサイレントキラーなのです。

 

 

だから僕は善悪が嫌いなのです。

というか憎かったし、恨めしいレベルなのです。

 

一時期は、この言葉を使うことをやめたほどです。

(しかし「好ましい」「好ましくない」みたいな表現は不便なので、こだわりを捨てています)

 

 

 

終物語のこのセリフがまさに僕の感情を表しています。

「私はお前が嫌いだ」
「私が嫌いなのは、幸せの理由を知らない奴。自分がどうして幸せなのか、考えようともしない奴」
「自力で沸騰したと思っている水が嫌い」
「自然に巡ってくると思っている季節が嫌い」
「自ら昇ってきたと思ってる太陽が嫌い」
「人は誰かに助けてもらわなきゃ幸せになれない   そんなこともわからない馬鹿が、嫌いで嫌いで死にそうだ」

「お前は何も覚えていないのよ   阿良々木。自分が何でできているかを知らないの」

by 終物語そだちリドル第二話  老倉育

 

 

そんな時期のことをズートピアを見て思い出しましたね。

 

 

 

 

 

 

実は、問題は解決すればいいものではありません。

今回の話もそうですが、そこが問題なの?

というか、それを問題にする意味があるの?

 

って部分は忘れられがちです



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中学生まで



_(┐「ε:)_< 神よ、お助け〜




高校生



( ´_ゝ`) 将来? 興味ないね



∩(´;ヮ;`)∩あ”あ”あ”あ”!!?



大学生



( ^ω^)祈る効果なさすぎワロタ
 諦⊂





( ^ω^)今まで諦めてたじゃろ
⊃) (⊂





( ^ω^)これを
≡⊃⊂≡




( ^ω^)こうして
⊃ .. ⊂

‘∵‘:’;



( ^ω^)三( ^ω^)動いて




\\٩( ^ω^)و //

こうなった件


自信作 無気力だった時期からの脱却

無気力レポート

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reminDO

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